私の知らない与謝野晶子
Photo:Akiko Yosano's 136th Birthday By frdnga
与謝野晶子展に行ったことで、与謝野晶子に興味が湧き「君しにたもふことなかれ」以外の歌も調べて見ました。そこは私の知らない与謝野晶子で溢れていました。
スポンサードリンク
宗家 源 吉兆庵|お知らせ
吉兆庵で与謝野晶子展を見たのがきっかけでした。写真もあり最近の方かと思っていましたが、130年以上も前に生まれたんだそうです。
岡山と与謝野晶子
ネット界でこそ大都会と皮肉られている岡山ですが、こんな辺鄙なところに何しにやってきたのかと思ったら、夫の兄が岡山にいたんだそうです。
与謝野寛と晶子(おかやま人物往来)
安住院といったら護国神社のすぐ近く、岡山駅からのそう遠くない場所です。そこに与謝野晶子の夫が暮らしていたというのも意外です。
年老いた夫と岡山にやってきた晶子も岡山観光をしたり、旅行先で歌を詠んだりしたんだそうですね。倉敷市では去年未発表の歌まで発見されたそうです。
与謝野晶子直筆の未発表短歌103首 岡山で発見 :日本経済新聞
岡山で講演会をしたり、備前焼に詠んだ歌を書いてみせたり、まぁこんなサービスをしてくれたもんですから、桃太郎のことなんか忘れて岡山県民はさぞ喜んだことと思います。
鳳志ようと与謝野晶子
与謝野晶子の旧姓は鳳(ほう)というそうです。Wikipediaで調べれば一発なのですが、これまで特に興味もなかったので調べることはありませんでした。
「鳳啓助でございます」で知られる鳳(オオトリ)と読むのかと思ったのですが、展示パネルに「ホウ」としっかりフリガナがあったので、ホウという華僑や半島からの渡来人なのかと推測しました。
年表にも8歳から漢学を習い始めたとあり、やっぱりそういう家系なのかと思ったのですが、当時の教養として一般的なものであって、特に華僑だから漢学を習ったわけではないようです。
しかし、8歳から論語を素読したというのですから・・・う、うーん頭が痛い。3歳で小学校に入学できるほどの秀才だったようです。数学も大の得意で、兄は東京帝国大学の工学部教授だったとか。レベルが凡人とかけ離れていますね。
鳳(ほう)という名前が気になったので調べてみると、元々は「大鳥神社」の大鳥で、すなわち鳳(おおとり)という姓だったのだと推測されます。鳳町や鳳駅というものは今も大阪に残っており、特に珍しい苗字ではないようです。
沖縄の「金城」という姓もカナグスク、キンジョウ、カナシロ、カネシロ等、今では色々な読み方に変わっていますから、そのような読みの変化が時代と共にあったのでしょう。
実は変態
悪意がある書き方をしましたが、世間ではすけべと分類されるところの更に高みに至っていたと思われます。
今ならピストン晶子と言われてもしょうがないような不倫関係にあった鉄幹との関係ですが、世間の批判もなんのその、猛烈アタックで正式に結婚し、12子を授かっております。
【ピストン矢口】東野幸治が厳しく批判「元旦那のほうが人間不信やで。ほんまふざけんな」 : ジャックログ 2chJacklog
また、マザコンロリコンはあたりまえ、ボーイズラブからショタまで何でもござれの源氏物語に至っては
「紫式部は私の12才の時からの恩師であり二十歳までの間に源氏物語を幾回通読したかしれません」
雑誌「少女」に大正年間に掲載された「私の生ひたち」
と、異性に興味を持つ一番多感な時期に何度も何度も読み返しているわけです。
嘘かまことか「バナナ 与謝野晶子」でぐぐるなと煽るので見てみると、あら素敵。きっと良いお友達になれると思われるエピソードもありました。
坂本竜馬も船が難破した先でナンパしてましたが、こういうことは教科書で教えてくれないですよね。
反戦歌と反戦家。実はステレオタイプな与謝野晶子
「君死にたまふことなかれ」は私は反戦の歌と教えられ、当時の文学作品にも戦争に反対する国民の姿がみられるなんて、日教組の手先のごとき教師に刷り込まれたものです。
しかしながら、海軍大尉の息子に対して
水軍の大尉となりて我が四郎 み軍にゆくたけく戦へ
子が船の黒潮越えて戦はん 日も甲斐なしや病する母
子が乗れる軍船のおとなひを 待つにもあらず武運あれかし
と詠み、出征する息子を誇らしく思う母の一面も見せています。
満州国独立の際には
蒋介石も張学良も快速に善後策を講じないというなら、
東三省 (遼寧省・吉林省・黒竜江省) の支那国民自身が独立して、
はじめて国民の実力に基づく平和な新政府を建設し、
日本と交渉し真実に強固な共存共栄を開くが良いではないか。
という論評を出したりもしています。女性主義の反戦家なんて初代田嶋陽子かと思ったりしていましたが、中々どうしてただ流行りものに手を出す、わかりやすい考え方の人だったのかもしれません。
働き者の与謝野さん、でも生涯女であり続けた晶子さん
よく、作家や芸人が泣かず飛ばずで苦労した若手時代の話等をしますが、与謝野晶子は少し違ったようです。
今の芸人さんというのは売れないからと貧乏な生活をしたり、ヒモ同然の暮らしをしたりする人がいますが、晶子は違ったようです。
子どもを食べさせるため、自分の執筆活動だけではなく他の作家の添削や翻訳の仕事など仕事を選ばず生活のために何でもやっていたということが書いてありました。
その働きぶりは夫の鉄幹よりも家計を支えていたと言うほどですからすごい女性だと思います。
子どもを膝に抱えて、机に向かって短歌を作ったり、添削したり、家事をしたり、子どもをあやしたり。想像を絶する苦労だと思うのですが、それができてしまうのが偉人と呼ばれる所以でしょうか。
子どもがひっぱって乱れないように着物の襟を縫いつけるなど、例え母となっても女性らしさを忘れないその姿にあっぱれです。
うちでも外でも肌を露出させて、素っ裸で部屋を歩き回るかつて恋した妻とは正反対の女性です。そりゃあ鉄幹さんだってうっかり12人も子どもを作りますよ。
働き尽くめで徹夜も当たり前だったのでしょう、着物の帯はリバーシブルで、徹夜明けの日も帯を裏返し、はしたない女性だと思われないような工夫がみられます。
どんなに忙しくても気遣いを忘れることなく、職場には万一の不幸に備えて喪服を常に用意していたというのですからすごいです。
妊娠出産を政府に負担させるべきだという主張にも、女性の真の自立のために女性は男にも政府にも寄りかかるべきではないと反論するなど、現在のフェミニストや働く女性とは違う立場の人だと思います。
最後に
あくまでも女として母として生き、自ら自立した生活を営んでいた与謝野晶子という人は、現代の男性化した女性主義者たちとはやはり一線を画する人物ではないでしょうか。
携帯小説と違いが分からない近年の作家さんたちに比べて知性や教養といったレベルが逸脱しているように感じます。
厳しかった両親への反抗というのが、自分をより完璧な非の打ち所のない人間にすることだといったベクトルの向け方が生涯にわたる彼女の行きかたに現れており、人として尊敬できる方で、またその方の作品というものを学校教育という媒介を得ない形で改めて読み直したいと思いました。